最高顧問  福田 康夫
日本国元総理大臣 

「雨後嵐山」記念詩碑建立除幕式への祝辞

私の数ある愛読書に周恩来さんに関する一冊があります。50年前に書かれた貴重な伝記といってもいいですが、思えば、われわれ日本人がもっとも親しみを寄せた中国の偉人でした。いつも民衆の声に耳を傾け、民衆の痛みにつねに寄り添い、民衆と共に悲しみ、ともに喜ぶ「文官」政治家だったと思います。

亡くなられたのが1976年でした、忘れていません、日本と中国の間に文字通り、架け橋を架け続けておられたことを‼ 昨今の難しい時勢を思いますと架け橋が今一度欲しいと願わざるを得ません。1972年、日中国交正常化はあなたのおかげでした。「日本を最もよく知っていて理解したのが周恩来総理」と崇敬した私の父、福田赳夫が1978年に、平和友好条約を結ぶことができたのも周恩来さんの遺産の架け橋のおかげでした。

周恩来さんを日中友好へ突き動かしたのは何だったのか、それを考えています。それは青年期の日本留学の体験が原点と思わざるを得ません。周恩来さんが日本に触れたのは留学のわずかな期間だけです。日本を離れたのは桜の季節といいます。日本を去りがたく、ここ嵐山をめでながら二つの詩を残されました。余情あふれる日本だったようです。

本日の「雨後嵐山」の詩碑は向かい合う亀山公園の「雨中嵐山」詩碑とは兄弟です。本日の詩碑除幕でもってようやく周恩来さんがよみがえる思いです。日中友好の原点として祝いたいと思います。瑞雲みなぎる日中でありますように。

2022年4月5日  福田 康夫

特别顧問  周 秉德
周恩来姪 中国和平統一促進会常務理事、周恩来鄧頴超研究センター顧問、北京大鸞翔宇慈善基金会創立会長、元中国新聞社副社长

嵐山大悲閣千光寺に「雨後嵐山」記念詩碑除幕式の式辞

1917年秋から1919年春まで、伯父が日本留学期間中に、「新しい思想、新しい見聞と最先端の学問」を学ぶことができたと言っております。そのため、伯父が従来から中日友好を重視し、1953年7月1日から中日両国関係正常化になった前日の夜まで、合計19年間の間に、日本のお客様と287回、また323個もの日本代表団の方々と面会いたしました。両国の民間貿易の回復、残留孤児の帰国及び戦争賠償問題等様々な問題の処理において、力を尽くして参りました。 

1974年12月5日、臨終前、重病を患うにも関わらず、伯父が日本の桜を思い出しながら「私は、日本からの帰国が既に55年も経ちましたが、1919年、桜が咲いている景色は今も忘れられない」と言っておりました。それは伯父が中日間代々にわたって平和友好を貫く原動力でもあるかと思われます。

本日、「雨後嵐山」詩碑が建立され、中日両国人民が平和を守る、また平和を貫く更に発展させる証拠でもあります。桜に平和の思いを寄与する伯父も慰められることと信じております。中日両国の平和友好事業の継続と発展に祈念を申し上げます。

周恩来「雨後嵐山」詩碑の建立、おめでとうございます。中日世代友好の伝承をお祈り申し上げます。

2022年清明    周 秉徳 

特别顧問  周 秉宜
周恩来姪 元中央文献研究室「周恩来思想生涯研究会」常務理事  

嵐山大悲閣千光寺に「雨後嵐山」記念詩碑除幕式の式辞

伯父周恩来の故郷は淮河流域にあり、幼い頃から、民衆が水災の苦難に煩わせることを経験したため、母方のお爺様である万青選が4代にもわたって治水事業の意義を深く理解しておりました。

日本留学から帰国後、伯父が故郷である紹興へ墓参りした時、親族を率いで禹の陵墓へも参拝いたしました。中華人民共和国建国してから、彼が大禹治水の精神から学ぼうと呼び掛け、一先ず水利工程の建設をはじめました。臨終前にも遺言を残して、死後には遺骨を黄河の河口へ撒きました。

伯父の「雨後嵐山」詩碑が日本の禹に例えられる角倉了以様とゆかりのある寺院に建立されることを知り、大変喜んでおります。中日両国の「禹魂」がここで出会い、ともに平和社会を期待する、また見守ることと信じております。

残念ながら私は自らこの除幕式に参加することができませんが、伯父の「雨後嵐山」の描写に沿って、伯父の百年前の足跡を辿り、皆様と一緒に高く上り、雄大な嵐山を眺めることができます。

本日ご来賓の皆様に心から感謝を申し上げます。遥かに中日両国の代々の平和と発展にお祈り申し上げます。

2022年清明    周 秉宜

顧問  小倉 和夫 

元外交官、青山学院大学 特別招聘教授、前国際交流基金理事長、駐フランス大使時代に周恩来と交流があった。 

顧問  西園寺 一晃

1967年北京大学経済学部卒業まで、20数回周恩来に会う。東日本国際大学客員教授、北京大学国際関係学院客員教授、日中友好協会顧問、未来日中研究会代表等を務める。